トラン湖のほとり。 酷く風の強い夜。 そこだけ、風が軋んでいた。 あと一歩足を踏み出せば冷たい水の中、という距離で蹲り、闇と同化している者が一人。 気配を殺し、すぐ後まで近寄って、ようやく何者かの接近に気づいたらしく、影が蠢き、下げていた白い顔を淡い月明かりの元に晒す。 「……やあ、ルックじゃない……」 弱い光に照らされた顔は、もはや蒼白になっており、とめどなく流れる汗とあいまって、その唇に乗せた笑みなどでは誤魔化しようがないほど、衰弱を如実に表せていた。 「悪いんだけど……今、一人にして欲しいんだ……」 そう頼み込む声も普段の演出過剰なまでに張りのあるものとは打って変わって、弱々しい。 「うるさいんだよ」 黙ったまま、不機嫌そうに解放軍の軍主たるタクトを見下ろしていたルックは、やはり不機嫌そうな声でそう言った。 「一人になりたかったなら、こんな直ぐそこじゃなくて、もっと別の場所に行けば良かっただろう」 もっともな指摘に、タクトが小さく苦笑を漏らすのが聞こえる。 「そうだね……」 「まあ、とはいえその様子じゃここまで来るのが精一杯、とったところかな?」 嘲るように笑い、また一歩、タクトに近づく。 その動きにびくっと肩を震わせ 「来るなッ!」 鋭い声で叫ぶ。尤も、それは追い詰められた小動物の鋭さだったが。 「は」 鼻を鳴らし、今一歩近づくルック。タクトが何かを言う前に 「僕があんたなんかに喰われると思ってんの?」 親切にもそう告げてあげると、言葉を作ろうとしていたタクトの口が変に歪められたまま止まった。 さらに一歩。もう目の前と言っていい距離になり、おもむろにしゃがみこむルック。 「ああ、間違えた。あんたじゃないね。あんたはこれを操れていないもの。あんたじゃない。ソウルイーターに喰われる、の間違いだったよ。僕としたことが迂闊だね」 意図した間違いを告白しつつ、その言葉にタクトの顔が歪むのを楽しげに見遣りながら、ずっと左手で覆い、更には折り曲げられた身体全体で包み込んでいた右の甲を引っ張り出す。 普段ならばルック程度の力に引かれたところではびくともしない身体も、これまでに衰弱しきっていたのだろう。あっさりと引きずり出せた。 「ルック!」 悲鳴のような声には構わず、自らの右手でしっかりと握った右手を眺める。 常に右手を隠している手袋は今は無く、甲に刻まれたような複雑な鎌のような紋章がはっきりと見える。いや、それどころか、赤黒く輝き、その存在を主張している。 「随分とまあ。暴走させているね」 呆れたように呟くルック。 実際、その紋章からは、何の方向性も持たされていないただ禍々しい力が無闇矢鱈と発せられていた。それと同時に必死になってタクトが押さえつけようとしている力も感じられるが、明らかに方向違いにその力は向けられており、はっきりいえば、力不足以前の問題。対処法からして間違っているのが分かる。 今からやり方を教えてやってもいいのだが、それでタクト一人に治めさせるには疲労が大きすぎるか。 「……仕方ないね」 結論を出したルックは小さく息をつき、更にぎゅっと握りしめた後、そっと顔を近づけ、額に紋章が当たるようにする。 「なっ」 「黙れ」 再び何かを言いかけたタクトを短く遮り、自らの体内に流れる魔力を集中させる。 そして 「――」 タクトが息を呑む。 タクトの中で荒れ狂い、猛威を振るっていた紋章が静まっていくのが分かる。 包まれた右手から、ルックの清涼とした魔力が注ぎ込まれるのを感じる。 そして、何かを教えるかのように、自分の中の何かが呼ばれ、導かれている。大人しくその感覚に集中すると、まるで手本を示すかのように自らの魔力の上にルックの魔力が覆い被さり、猛け狂っていた紋章の力もまた誘導し、受け入れ、流していく。 その作業を繰り返していくうちに、跳ね上がっていた鼓動も落ち着き、乱れていた呼吸も規則正しいものへと変わっていった。 「――」 「――」 すっかり大人しくなった紋章を確認したのだろう。 ゆっくりと額を離し、閉じていた目を開けるルックの顔がすぐ近くにあるのを呆然と眺める。 目が合った。 べし。 途端に離された右手は、完全に自分では力を入れていなかったため、そのまま重力に引かれ、下にあった足に当たる。 先程までの全身の力を賭しても押さえつけられるかどうかの状況を思えば、取るに足らない小さな小さな痛み、というよりは感覚に、はっとタクトの意識が戻る。 「あ――ありがとう」 「……自分の紋章くらい、自分で制御してくれる?」 搾り出すように礼を述べると、途端に返されるのはいつもの皮肉。 今回ばかりは文句のつけようもなかったので、痛烈なその言葉には笑ってみせるしかない。 「何へらへらしてんのさ。 ……ほら」 そういって渡されたのは丁寧に折りたたまれた布。 「その気持ち悪い汗。ふけば」 言われてようやく自分が真夏でもめったにかかないような大汗を流していたことに気づく。むしろ、気づいてみれば背中も腹も冷たい。どうやら全身らしい。 ならば自分のポケットの中のハンカチは使い物にならないだろうと判断し、ありがたく受け取り顔を拭う。 「気持ち悪いなんて酷いな。これぞまさに青春の汗ってやつでしょう」 ひどくお粗末ながらも、ようやく冗談を言う気力も沸いてきた。 「ああ、でも本当に助かったよ。ありがとう。君が来てくれなかったら、ちょっとどうなっていたか」 一通り拭い、改めてお礼を述べる。それにルックは面白くもなさそうに 「まあ、媒介に、壊れるか尽きるまで無作為に力を放出していただろうね」 あえて言わないその主語は無論、タクト。 危うく大量破壊兵器に成り果てるところだった事実に、ぞっとするタクト。 「でも……ルックが教えてくれたから。もう大丈夫、だと思うよ」 「そう願いたいもんだね。そうそう何度も暴走されちゃ、こちらがもたない」 頼りないその言葉にうんざりしながら応えるルック。その言葉に、そういえば、とタクトが 「そういえば、よく僕に宿っている紋章を抑えられたね」 今更ながら驚くと、ルックはますます面白くなさそうに 「……僕と相性の悪い真の紋章なんて存在しないけど、その中でもその『闇』系統は相性がいい方みたいだね。それに、紋章を隠すのも得意だし。まあ、他に今回は僕もあんたとか、自分の紋章も媒介にしたから。勿論、誰でも出来るとは言わないけどね」 などと、自慢なのかなんなのか良く分からないことを言う。 意味が良く分からなかったので、更に訪ねようとすると 「それより。その紋章。なんで暴走したか分かってんの」 先に問われた。なんとなく話題を逸らされた気もするが、大きな借りが出来たばかりだし、頷きながら答える。 「僕が、ソウルイーターを否定し、押さえつけようとだけしていたから……」 「紋章は、特に真の紋章は、人には大きな、大きすぎる力を持っている」 正解だったのだろうか。いきなり講釈が始まった。 「だからこそ、ただ押さえつけようとしただけでは、人は真の紋章の力の前に押しつぶされ、食い尽くされるのがオチだ。だから、押さえ込むのではなく、受け流す。受け入れて、理解し、誘導する。真の紋章を宿らせただけでは支配したことにならないんだよ。宿し、尚且つ自分であるには、真の紋章と共存するなり、その主人とならなくてはいけないんだ。失敗した者に待っているのは、周りを巻き込んだ破滅。分ったかい?」 珍しい饒舌。その表情は、まるで自分にも言い聞かせているようだ、と思いながら理解を示す為、真摯に頷いて見せた。 それに満足したのだろう。ついでにいつもの皮肉な表情に戻り 「そう? ならいいけど。今のあんたときたら。完全否定しているくせに、必死に力押しだからね。まあ、むしろ今までよくもったのかな?」 等と言ってくる。 「もっと早くに教えてくれればもっと嬉かったね。 ……それに、ルックの紋章は風だけど、僕は魂喰らい。ソウルイーター。理解し、受け入れるには、難易度が難しい、と言ってはいけないかな?」 一応控えめに反論してみると、ルックの表情が何か痛みを堪えるかのように歪む。 「……真の紋章に性質の違いはあるのは認めるよ。でも、僕には僕の、あんたには分らない問題がある。難易度なんて、それこそ全ての真の紋章を宿した者にしか判断出来ないと僕は思うけどね」 「ごめん」 激情を抑えた真剣なその声に、素直に謝る。落ち着いたのか、幾分冷静な声でルックが続ける。 「それに、あんたは初めから間違っている」 「え?」 「あんたの宿しているのはソウルイーターじゃない。生と死の紋章だ」 「生と死の紋章」 オウム返しに呟くタクト。 「ソウルイーターというのは、人間がつけた別称であり、その本当の名は生と死。そして名はそのままその紋章の特性を往々にして表す。 ――初めて知った事じゃないだろう」 「……」 淡々と話すその言葉にもはや何も返せず、ただ言われたことのみが頭の中で繰り返される。 生と死の紋章。 生と死。 生。 「ようやく分ったようだね。あんたの紋章は、死だけじゃない。生もまた、扱っているんだよ。極端な二面性の中の一面しか見ないで、どうやって折り合いをつけて行くっていうんだい?」 「……そうだね」 「まあ、その内確かに生も扱っているって事が分ると思うよ。 ……それに、紋章を理解し過ぎるのは、決して良いことばかりじゃないしね」 「は?」 突然のこれまでとは反対の意見に目を見開くタクト。 「何でもないよ。ま、あんたは当分死だけを扱う、死神だろうしね」 「……酷いな」 ざくりと切り込まれるその言葉に呻くと、ルックはまた鼻で笑いつつ 「本当のことだろう? それより、もういい加減戻れば? また付き人が騒ぐよ」 「いや、大丈夫。クレオ達は気づいてないよ。それは確信があるから。むしろ僕としましては、ルックがここにきたことこそが大きな驚きなんだけどね」 数日前から手の甲の中で暴れだした紋章。 それでも始めはちょっと集中すればなんとかなるくらいのもので、誰にも気づかれることはなかった。 だが、日を重ねるごとに紋章の力も、発作の回数も多くなり、その内適当な理由をつけて自分自身の戦闘は避け、交易や書類や内政に力を入れることで部屋に閉じこもり、発作が起きた時も周りをなんとか誤魔化していた。 けれど今宵。今までに無い強さで暴れだした紋章を、最初は部屋の中で押さえようとし、堪え切れそうにないと知ると、せめて誰かを巻き込むことのないよう、それは必死に抜け出してきたのだ。 本当に、何でルックにばれたんだろう、と思って問いかけるように見ると、またルックは呆れたようになり――今夜はよく表情が変わる――肩を竦めると 「最初にうるさいって言っただろう。異変をしらせる風も、あんたの自己主張の激しい紋章も、アレだけ騒いでいればそれは気づくさ」 言って辺りを仰ぎ見る。 そういえば、随分と強かった風がいつの間にか、いや、ルックの言葉の通りならば恐らくは紋章の暴走と共にだろう。収まっていた。 「そう……じゃあ、本当に僕の為だけに来てくれたんだ」 感謝の気持ちを込めて微笑むと、なんとも珍妙な顔をした。 「……紋章がうるさかったんだよ。ほら、いいからもう行きなよ。風呂に入るんだろう」 「……ひょっとして、汗臭い……?」 ふと気づき、タクトが恐る恐る尋ねると、ルックはきっぱりと頷く。 思わずなじるように右手を見、拳を握りしめると、じっとりとした感触。 「………………」 よく、潔癖症めいたルックが握りしめてくれたなあ、等と思っていると がつ。 「いたっ」 殴られた。 「何するんですか」 抗議をすると、はあ、とこれ見よがしにため息をつきながら 「これくらいも避けきれないくらいに衰弱した馬鹿が何言ってんの。いいからもう何も言わず戻れ。何度も言わせないでくれる」 なんて言われ。 ひょっとして、かなり本気で心配されているのだろうか、等と思い立ち、いや、よく考えれば、いやいや考えなくても、あの長い紋章講釈といい、これはそうとう心配されているのだろう。 そう解釈したタクトは嬉しそうに笑いかけると一言。 「照れやさんだね」 「……この状態で僕の切り裂きが避けられるのかそんなに実験したいのかい?」 正確にタクトの思考を読んだルックがきっと睨みつけると、タクトは笑いながらようやく立ち上がる。 「あ」 「っと馬鹿!」 一気に立ち上がった為、ふらつき湖に向かった身体を、半立ちになったルックが慌てて引き寄せる。 どっ。 タクトは深夜の行水を免れたが、途中で手の離れたルックの身体が反動で倒れた。後頭部から。 「……」 「……えー。平気?」 流石に申し訳なくなり尋ねると、無言で起き上がったルックはただ追い払うように手を振る。 まるで犬のような扱いだ、と思いながら従うのが懸命、と判断したタクトは城へと方向転換しながら 「あー、そうだ、何かお礼に」 「じゃあ明日から7日、戦闘なしで」 間髪入れずに返答され、またその内容にうーんと呻きつつ 「7日はちょっと。今はもう大詰めだし。せめて2日。ごめん」 「……まあいいよ」 意外とあっさり承諾され、驚きつつも感謝の言葉を述べると、また手を振られた。 「……うん。では、今日はありがとう。ルックは戻らないの?」 「戻るけど、あんたと仲良く歩いていく気はないね」 つん、と顔を背けながら言われ、はいはい、と苦笑する。 「じゃ、おやすみ」 「じゃあね」 「やっと行ったか、あの馬鹿」 完全に姿が消えるのを確認して、ルックがふう、と息を漏らす。 なんとか隠しきれたが、タクトの紋章の暴走を抑えるのに、疲れ切っていた。 正直、もう身体を動かすのも億劫なのに、あの馬鹿が湖に落ちようとするのを止めたせいで、突発的に余計な体力を使いきり、もう動きたくない。というか、動けない。 これで明日いつものように戦闘に連れて行かれるのかと内心危惧していたのだが、幸いそれは防げた。 明日、自由が確定しているのならば、止んだとは言え風の強い夜だったし、出歩きにいって、今から戻ってくる者はいないだろう。身体は痛くなっているだろうが、こんな情けない様子を誰かに見られるよりはましだ。なら夜明けまでこのままここで寝てしまい、日が昇ったら誰かに見つかる前に少しは戻るであろう魔力で部屋まで戻ろう。 そう判断し、起こしていた身体を再び横たえた。若干寒くはあったが、疲労は容易く睡魔を訪れさせた。 翌日、予定通りに誰にも見つからずに城に戻り、恐らくある日以来ずっと自分をメンバーから外す事のなかったことのカムフラージュの為だろう。自分以外は女性陣だけ、というある意味思い切ったメンバーでいつも通りの軍主スマイルで、近場らしく、ビッキーに頼らず城を出るタクトを窓から見送ったあと、ルックはぼふっとベットに倒れこむ。 出かける際、ちらりとこちらを見上げたタクトが何かを合図するかのように微笑んだのは気にしないことにした。 暗雲たる思いと共に、ルックは閉じていた目を開けた。 「ああ、歩きながら寝ているのかと思ったよ」 途端に聞こえる隣の声。 そちらを見遣ると、そこには予想通り、三年前からの営業スマイルを顔に貼り付けたタクトの姿。この笑顔を評して、気品と慈愛に満ちた微笑、というのだから世の中から詐欺被害者がなくならないわけである。 「つか良く目ぇ閉じたまま歩けるな」 逆からの声に目を向けると、そこにもやはり閉じる前と変わらず、ウキウキ、と顔に書いてる、現在所属しているスレイ軍軍主、シュウユウの顔。 「……両腕を捕まえられてればね。方向なんか見なくても足さえ動かせば歩けるよ」 そういってきっちり押さえ込まれた腕に力を入れて暗にそろそろ放せ、と主張すると 「放したら逃げるでしょ?」 「釣り勝負は初めてですね。負けませんよ」 あはは、ふふふ、と両脇で笑い合う。 「……審判ならそれこそタイ・ホーでもヤム・クーでもアマダでも。誰でもいるだろう」 無駄と知りつつそう言うと、やはり口々に 「彼らはお仕事がありますから駄目でしょう」 「そうそう。スレイ軍の厨房から魚を減らす気?」 「だとしても別に僕じゃなくていいだろう」 「いえ、でも僕らは釣りに熱中するので」 「素早いボディーガードでいざという時に素早い避難方法を確保しないとね」 等といってくる。 あんたら二人でどんな危険があるんだ、と思いつつも 「僕は道具じゃないよ」 というとまた何がおかしいのか爆笑してから更に腕にかけられた力を強めてくる。 抗議の意をこめてため息をついてやりながら、横目でタクトを見る。 今では右手の紋章をソウル君とかいうふざけた愛称で呼び、笑い、冗談のネタにも脅しにも使ってくるようになった少年。 先程までの回想の時と比べ、本音はどうであれ、もともとの相性は良かったのであろうその紋章に大分慣れ、折り合いをつけたようである。 そして、三年前に比べ、より愉快犯じみて遊びに興じるようにもなったが、それらに毎回自分が付き合わされるのを除けば、まあそれはそれで自分の道を選んでいる、ということなのだろう。 そんなことを思っていると 「あ。また遠くを見てるし」 「夢見がちな年頃なのかい?」 当然だが、こちらの考えなど露知らない顔でシュウユウと一緒に覗き込んでくるタクト。 そろそろ鬱陶しいので、こっそり集めていた風を解き放つ。 「切り裂き」 「わっ」 「こらー!」 素早くかわす二人。まあ、かわせるよう手加減してやったのだが。 「……ついていけばいいんだろ。自分だけで歩くよ」 更に文句を言われる前にそう言ってやると、はっきりと二人の顔に笑みがのぼる。 「じゃあそうとだけ言えよ」 形だけの抗議をした後、意気揚々とまたシュウユウが歩き出し。 また一つため息をついて、タクトと共にその後を追った。 |