016.愛しい






 カツ、カツ、カツ。
 とことことことこ。
 カツ、カツ、カツ。
 とことことことこ。
 カツカツカツカツカッ。
 とことことことことことこ、べん。
 「あ、も、申し訳ありません……!」
 僕が急に止まったため、ぴったり、としか言い様がないほどに後をくっついて歩いていた小さな少女は止まりきれず、思いっきり僕の太ももにぶつけたその小さな額と鼻を、やはり小さい手のひらで覆いながら目を潤ませ、必死で謝ってくる。
 そんなに早くは歩いていなかったし、僕はズボンの上に厚いローブも着ているから、僕同様、彼女もそれほどの痛みを感じなかったはずなので、潤んでいるのはそれが理由ではないだろう。恐らく、僕にぶつかってしまった、ということがショックなのだろう。こちらは、きっとぶつかるだろうと分かっていて止まったのだが。
 「気にしなくていいよ。それより」
 僕がそう言うと、明らかに安堵したように手を下ろし――やはり、額も鼻も、赤くすらなっていない――それから不思議そうに目を瞬かせながら次の言葉を待っている。
 「前もいったけど。別にいちいち僕の後を付いてこなくていいんだよ」
 正確には大体12時間前、つい昨夜も言った事をもう一度言うと、少女は困ったように目を伏せた。
 「……はい、申し訳ありません……」
 そして、うつむいたまま沈黙する。
 微動だにしないその様子を見て、僕は小さくため息をつく。すると、聞こえたのか華奢な肩がびくりと震えた。
 そして、口を開き……閉じる。豊かな睫からかろうじて覗ける瞳はまた潤み始めている。
 「……」
 黙したまま、今度は内心でため息をつく。この塔に来てまだ数日しか経っていないのだし、ここに来るまでの彼女の境遇を考えれば仕方ないのかと思いつつ、この過剰なほどに怯えた様子を思うと……。
 「セラ」
 小さく名を呼び、視線を合わせる為にしゃがみこむ。
 「はい、ルック様」
 また身体を震わせながらも、素直に返事を返す。哀れなほど従順に。
 その瞳に宿るのは、不安。
 怯えた子供にはどうするか。
 頭の中をいくつか知識がよぎり、どれも自分にはそぐわないと思いながら、まだ耐えられそうなものを選ぶ。
 これ以上怯えさせないようにわざとゆっくり、セラに見えるように下から右手を上へと持ち上げ、そのままセラの、大して大きくもない自分の手のひらで覆えてしまえる頭の上にそっと置く。
 「ルック様?」
 驚いたような声。眼がくっきりと見開かれている。
 我ながらぎこちない手つきでゆっくりと頭を撫でながら、やはり似合わないと思いながら口を開く。
 「いちいち怯えなくていいよ。別に、怒っているわけじゃない。それより、さっき何かいいたかったんだろう」
 優しげな声、とやらを実践してみようと思ったのだが、想像以上に平坦な声になった。
 失敗したかな、と思いながら頭を撫で続けると、迷うようにセラはそれでも口を開いた。
 「あの、ルック様」
 黙って今度は僕が続きを待っていると、何故かセラはまた不安そうな表情になる。 ……ひょっとして、何か相槌を打つべきだったのだろうか?
 「……あの、ルック様」
 しばし躊躇い、また同じ言葉を口にする。今度は返事の代わりに頷いてみせると、若干緊張がとれた表情になった。
 「ついてこなくていい、というのは、その、ついて来るな、ということですか?」
 意を決したように問われたその思いがけない言葉に、一瞬絶句する。
 「……いや、そういう意味じゃないよ。君は自由に、といっても、レックナート様の書斎とかは別だけどね。自由に、従者のように付き添わなくても、自分の好きなところに行っていい、そういう意味だよ」
 なるべく丁寧にそう告げると、またセラは困ったように口を小さく開閉する。
 もしかして、何所か場所を聞きたいのか?
 考えづらくはあるが、そう尋ねてあげた方がいいのかもしれない。
 「あの、ルック様」
 そう思っていると、また同じ言葉でセラが切り出す。
 「なに」
 「あ、あの」
 今度は一体何がいけなかったのだろうか。また怯えた顔になる。
 「ルック様は、私がついていっては邪魔ですか?」
 「……」
 問われてすぐに思ったことは『ちょっと邪魔』ではあったが、流石にそう言うわけにはいかないことくらいは僕にも分かる。
 「……別に」
 「本当ですか!」
 自分でも、怪しい返答だったが、その言葉にセラの顔が輝く。
 「あの、では、セラは、ルック様についていきたいです!」
 「……」
 間違っても、僕は子供に好かれるタイプではないと思うのだが、これはどういった現象なのだろう。
 思わず真面目に考える。
 そして直に、この塔には僕とレックナート様しかいないのだから、選択肢がないのかという結論に辿り着く。また、やはり彼女のこれまでの境遇を考えると、誰かの傍にいたいと思うものなのかもしれない。
 まあ、それはそうと
 「それは、駄目」
 「っ」
 途端に泣きそうになる表情。その顔には後悔と絶望。
 予想通りとはいえ、小さな子供にはちょっと悪い事をしたかと思いつつ、慌てて次をつなぐ。
 「後は、駄目だけど、隣ならいいよ」
 「え?」
 きょとん、とする顔。言われた意味が分からないらしい。ずば抜けた理解力と知性を持っていることは分かっているが、こういう表情をするとやはり子供だと思う。
 「後だと、僕のあとをついてくるのに夢中で、さっきみたいに急に立ち止まったりすると対処できずにぶつかってしまうだろ。今は廊下だからいいけど、階段でぶつかって落ちたらどうするわけ。だから、ついてくるなら隣歩いて」
 今までずっと頭を撫でていた右手をそのままスライドさせ、柔らかな頬を包み込む。
 「分かった?」
 目を覗き込んで確認をとると、それまで呆然としていた顔が、突然意識を取り戻したかのようにはっとした表情をつくり、みるみる顔が紅潮していく。手に熱が伝わってくる。
 「あ、あの、は、はいっ」
 僕に包まれたまま、目が回るのでないかという勢いでこくこくと何度も首を縦に振る。
 気がすんだのか、ようやく止まったので、僕も手を放し、立ち上がる。
 「蔵書部屋。行くよ」
 「はい、ルック様」
 嬉しそうに頷き、早速言われたとおり、隣にならんで歩く。
 カツカツカツカツ。
 とてとてとてとてとて。
 「……」
 10歩目で視界から消えた。
 「も、申し訳ありません……!」
 「いや、僕が悪かったよ……」
 思えば、見た目の身長差の通り、歩幅もまた違うのだ。
 そうすると昨日、今日と、僕の歩幅についてくるのは大変だっただろう。突然止まって対処が出来なくなるのも、それが原因だったのかもしれない。
 真っ赤になって謝るセラの頭にぽんと手を置き、再び歩き出す。勿論、今度はゆっくりと。
 「あ、ルック様」
 「なに」
 「あの、ありがとうございます」
 「……別に」
 今度は順調に一緒に歩いていく。
 小さな子に合わせて歩くのは、正直いらいらし、思わずさっさと歩きたくなるが、隣の嬉しそうな顔を見れば、何故か我慢出来る気がする。
 やれやれ。まさか、この僕がこんな小さな子にこんな気持ちになるとはね。
 我ながら冷笑を禁じえない。
 しかしそれでも。
 この気持ちは、愛しい、というものなのだろう。
   









     


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