51,冷たい床 冷たい床。 そっと身体を横たえる。 見えるのは、やはり、天井。 微動だにせず、冷たい床から冷気が身体に纏わりつき、沁みこんで行くに任せる。 飽いて、ごろりと横を向く。 とたんにむき出しの肌が床に触れ、先程よりもより冷たい刺激が伝わってくる。 「……」 ほう、と息を吐く。 白く濁るかと思ったが、吐息はそのまま色をつけることなく大気へ溶け込む。 ……ばさばさ…… 遠くで羽ばたきが聞こえる。 帰ってきたのか、と身体を起こし、乱れた衣類と髪を整える。 「……おや、白梟。何をしているんだい?」 思ったよりも早く帰ってきた黒鷹がいつも通りの笑みを貼り付け尋ねてくる。 「……特になにもしていません。そもそも、何かしていたとしても貴方に報告する義務はありません」 笑顔から目を逸らし、そう告げるとまた笑った気配がした。 「やれやれ。あなたは本当につれないなあ。ところで、主がどこにいるか知らないかい?」 「……主の用だったのですか」 少しの驚きと、それより少し強い嫉妬を覚えながらそう言うと、黒鷹はまた笑う。 「いやいや。違うよ。私が用があるんだ。ほら、見てくれ給え」 そういって手に抱えていた袋をかざす。 ああ、また何かくだらないものを買ってきたのですね。 安堵と共に中身を取り出そうとする黒鷹を制し、答えを告げる。 「主なら、下のお部屋から移動されておられません」 そして、手を振り、早く行くよう促す。 「ああもう。そんな邪険にしなくてもいいじゃないか」 正確に理解した黒鷹が階段を下りていく……と思ったら途中で止まる。 「ああ、忘れるところだった。ありがとう」 「……いいからお行きなさい」 「ああ」 ……。 全く。 あの鳥は、何故ああもへらへらとしているのでしょうか。 ため息をついて、そのまま座りこむ。 『何をしているんだい』 ふと、先程の言葉がよみがえる。 「……」 言えるわけがないでしょう。 冷たい床に横たわる。 主の好きなその行為。 模倣すれば、そのお気持ちが少しは分かるかと思ったなどと。 その上、行為の末、得たのは冷えた身体だけ、などと。 言えるわけがないでしょう。 「……白梟」 「え?」 不意に声をかけられ、我ながら間のぬけた声を出す。 覗きこんでいる相手が黒鷹と分かり、思わず顔が赤くなるのが分かる。 「大丈夫かい? そんなところに座り込んで。具合でも悪いのかい」 若干慌てた様子で手を伸ばしてくる。 「ああもう、こんな冷たい床に座ってるから、身体が冷えてるじゃないか」 「……触らないで下さい」 ばさばさっ。 顔色に注目される前に名の示す通りの白い梟の姿になる。 「あ」 「そもそも、私達は具合が悪くなるものなのですか?」 疑問になったんので聞いてみると、何故か右腕を肘を曲げた形で差し出しながら 「うーん。まあ病気になったことはないけど、疲れることは勿論あるからね。 ……疲れているんじゃないかい?」 「確かに貴方と話していると疲れますが」 ばさばさ。 「……疲れないかい?」 「何がです」 首を傾げての問いに、聞き返すと苦笑しながら左手で突き出した右手を指差しつつ 「鳥だと、ずっと飛ばなきゃいけないだろう。良かったら止まってくれ給え」 ……。 「っと」 確かにずっと羽ばたいているのも億劫だったのでわざと勢いをつけてその手に止まる。一瞬膝でバランスを取っただけで平然としている黒鷹。 どことなく気に喰わないものを感じながら口を開く。 「それより、貴方は主に用があったのではないですか」 「ああ、それで、主がお茶でも飲もうかと……」 「何故それを早く言わないのです!」 皆まで言わせず、慌てて腕から飛び立ち、人の姿に変わる。 「主をお待たせするなんて! 急ぎますよ、黒鷹!」 「……まあ、あなたが元気ならそれでいいんだけどね……」 後でぼやく黒鷹には構わず、急いで階段を駆け下り、主がおられるはずの部屋へと向う。 「お待たせして申し訳ございません」 「……いや……」 お待たせしてしまったはずなのに、寝そべるように椅子に座っていた主は軽く首を振るだけで赦して下さる。 「……あやつは……」 「はい?」 扉に視線を向けられたままの呟きに振り返ると、てっきり後についてきていると思った黒鷹の姿がない。 「あの人は……! 何をぐずぐずしているのでしょう」 ただでさえお待たせしてしまった主をこれ以上お待たせするなんて。 きびすを返し、呼びに行こうとすると、主に呼び止められた。 「茶を、淹れておるのだろう」 「え」 「お前が淹れるものと思ったのだがな。この時間で手ぶらで来る、ということは茶は黒鷹が淹れておるのだろう?」 「あ、も、申し訳ありません!」 はっきりいって、お茶のみならず、料理は私の方が上手い。それは無論主もご存知で。 「もうよい。それより座れ。いつまでも目の前でうろうろされては鬱陶しくてかなわん」 どうでもよさそうな、感情の無い声で隣の椅子……といってもこの部屋には元々三つしか椅子がない……を指さされる。 「申し訳ありません……」 お怒りも、ご不快さも、何も、何も感じさせない主の声色。 「あーあー。駄目ですよ主。その人は真面目なんだから。ほら、落ち込んでいるじゃないですか」 いけないと思いながら俯き、示された椅子に座ると、笑いと呆れが混ざったような声が聞こえた。 「遅い」 「はいはい、お待たせ致しました、と」 簡潔な主のお言葉に、いつものふざけた調子で答えながら手にしたトレイからティーセットを並べ始める。 「はいどうぞ。多分いつもよりは美味く淹れられたと思うんですが」 「お前の茶は平淡な味のくせに美味くない。もとより期待などしておらん」 差し出されたカップを受け取る為にゆったりと体を起こされた主が、唇の端を上げてそうおっしゃられる。 「主のお茶よりは随分マシですけどね」 「黒鷹! 貴方はなんて無礼なことを!」 私の方にカップを差し出しながら肩をすくめる黒鷹を瞬時に嗜めると、だって、と尚も 「だって、主の淹れるお茶といったら、お茶っ葉と砂糖の他にかならず3種類は何かを入れるんだよ? 塩とか酢とか。ああ、海草の粉末、とかいうのもあったけ。あとは何をどうしたのかやたらとしょっぱい桃色の汁を出されたことも」 「……そもそも、主にお茶を淹れていただける、ということを光栄に思いなさい。そのように工夫して下さった主のお心をありがたいとは思わないのですか」 「いやー、あれは工夫というか、ほぼ闇鍋ですよね? 主」 ぽりぽりと頬を掻きながら、こともあろうに主にそのような同意を求める黒鷹。 すると、主は深々と溜息をつかれ 「……茶が冷める……」 「ああ、そうですね。じゃあお茶にしましょうか。はい、これ」 尤もな主のお言葉に、今度は黒鷹も素直に同意し、何やら袋を取り出す。それは、先程抱えていた袋だった。 がさごそと無粋な音を立てながら中の物を取り出す。 次々とテーブルに並べられたものは、沢山の焼き菓子。 「評判のお店があるって聞いてね。ちょっと買いにいったんだよ」 どれも三つづつあるお菓子を指先で分けながら、嬉しそうに黒鷹が笑う。 まだ封を開ける前だというのに仄かに香ばしい匂いが部屋の中を漂う。 「はい、どうぞ」 分け終えた黒鷹が満足そうに言う。 どうせなら、飾りのついた皿にでも並べればいいのに、そういったことに無頓着な肩翼はほとんど机いっぱいに広がったお菓子を見て目を細める。 まあ、確かにどれも可愛らしくも凝ったデザインの焼き菓子達はこのままでも目に楽しいけれども。 「しかし貴方は、この量を一人で買いに行ったのですね」 恐らく女性客が中心であろうその店に、見るからにおかしな格好の大の男が大量にお菓子を注文する姿を思い描く。この鳥に、恥という概念はないのだろうか。 「ああ、勿論だよ。ここのお菓子を買うためだけにやってきましたって言ったら、主人が感動してくれてね。ほら、丁度今主が持っているのはおまけしてくれたんだよ。ちゃんと三つも。いやあ、いい人だったなあ」 こちらの呆れた声音に気付かぬはずがなかろうに、いかにも楽しげに話す。 全くこの鳥は、と思いながらも焼き菓子の一つに手を伸ばす。簡単な包みをといて、口に含む。 「……美味しいではありませんか」 食べたのは表面にナッツが散りばめられ、何を塗ってあるのか表面がきらきらした、薄いタルトのようなものだったが、歯ごたえはさっくりと軽く、ナッツがいいアクセントとなり、甘すぎず、じわりと風味が広がるような、そんな味だった。 素直にそういうと、主も頷かれ 「珍しくまともな物を買ってきたではないか」 「って紅茶に浸すのは止めてください!」 「どう食そうと我の勝手であろう」 「色々台無しじゃないですか! ああもう、白梟、あなたはこの光景になんとも思わないのかい!?」 「主のなさりたいようにされるのが一番です。それより、五月蝿いですよ黒鷹」 「全くだ」 「もう……あなた達は……」 不遜にもがっくりと肩を落とす黒鷹を無視して、主とのお茶会は続いた。 「ああ、ありがとう白梟。でもいいよ。私が片付けるから」 美味しさにつられ、あれほど大量にあった焼き菓子も綺麗になくなり、カップ等を片付けていると、包み紙のゴミを持った黒鷹が近づいてきた。 「……貴方一人に任せますと、主が中々お休みになられませんから」 お茶会が終わったと同時に「我は寝る」、と仰せになられ、そのまま椅子から降りられて床に寝そべられる主をなんとか長椅子まで戻っていただいて。ベットに移られるおつもりは無いようなので仕方なく後は主が快適にお休みになられるように素早く部屋を片付けるのみ。 ……一応、美味しい焼き菓子を買ってきた黒鷹に対する労いの意味もあるのだが、そんなことは勿論口にしない。 「いやあー。あの方は耳元で私がフルコーラス歌っても熟睡されるけどねー」 はははは、と乾いた声で笑う黒鷹。 「でもまあ、今日は比較的素直に長椅子に寝てくれたし。床じゃないだけマシなのかな」 多分、なんだかんだいってお菓子で機嫌が良かったんだろうね、等と答えようもないことを言いながら片付けていく。 結果的に二人並んで塔の階段を上りながら、私は勤めてさり気無く疑問を口にする 「……主は、どうして冷たい床でお休みになられるのでしょう」 思ったよりも低く小さい声で発せられたその問いに、黒鷹はふぅむ、と唸りながら 「私もあれだけは分からないんだよねぇ。絶対柔らかいベットの方がいいと思うのだけど。実際主も身体が痛い、と仰るし。ずっと前にそんなに冷たいのが好きならそういうベットをお創りになっては、と言ったんだが。それでは意味が無い、なんて言われてね。全く何を考えているのか」 やれやれと呆れたように笑う黒鷹に、私も薄い微笑を返す。 ばさばさばさっ。 黒鷹の持っていたゴミが落ちた。 「……何をやっているのです貴方は」 「いやー。その。ちょっと驚いてね」 ハハハ、としまりのない顔で笑いながらかがんでゴミを拾う。階段だったので、下まで落ちてしまったものもあった。 やはり私がティーセットの乗ったトレイを持っていて正解だった、と思いながらそのまま上る。黒鷹を待つ必要は感じられない。 一人階段を上りながら私はどこか安堵を感じていた。 私よりもずっと、ずっと前に創られた鳥。 私には分からない主のお気持ちを汲んで、私よりも笑いかけてもらえる幸せな鳥。 でも、そんな彼でも。 彼でも、主のことを全て知っているわけではないのだ。 勿論、そんなことは知っていたけど。 知ってはいたけれど、改めて確認出来た事。 そのことに、私は安堵していた。 ああ、でも。 冷たい床の感覚を思い出し、一人苦笑する。後で黒鷹が待ってくれ給え、等と叫んでいるのを無視して。 でも、もう冷たい床に横たわるのはやめることにしましょう。 |