098.君の声で囁いて






 あるうららかな午後、ビクトリア城軍主の部屋で、いつも通り騒乱は始まる。

 「ぬぅあに考えてるんだあの軍師はーッ!?」

 突如、響いた軍主の叫びに、部屋の前で常に待機している兵士達はびくりを肩を震わせ、ついでに原因が何か……いや、軍師殿に関係しているようだけどいいからともかく、自分たちに類が及ばない事を願っていることも露知らず。
 叫び声の主、シュウユウは顔を真っ赤にして表に居る兵士達とは別の意味で肩を震わせていた。
 「どうしたんです? シュウユウ」
 机に向かい、毎度シュウから渡させる課題に取り組んでいたかと思えば突然叫びだしたシュウユウに、他に椅子がない為ベットに座って読書をしていたタクトが意味の無い微笑を浮かべた顔を上げて穏やかに尋ねる。
 突然の奇声に動じる様子が全く無いのは神経が図太いのか単に慣れているからなのか。
 恐らくは両方だろう。
 「これ! この本!」
 問われたシュウユウは憤然とした面持ちでぐい、とそれまで手にしていた本を突きつける。
 「ん? ああ、ハルモニアの本だね。いつもと違うテイストみたいだけど」
 表紙に描かれた文字を見てタクトが言う。テイストが違う、と評したのは、普段は戦術指南書などの一挙両得な本が課題に出されるのが多いのだが、今回はそういったえてして大きくて厚めになる本とは違い、手の平大程度の小さめな、頁数もせいぜい300ページ程度の物だったからである。
 「ええと……『砂時計』」
 とりあえずタイトルを読み上げるタクト。自分はそれだけを訳すのに10分もかかったのに、と仕方ないとは思いつつもどことなく複雑な様子で頷くシュウユウ。
 「うん。シュウがさ、今回の課題はその本を全部訳して、そんで最後に指定した箇所を読ませるからそのつもりでいろよって言ってたんだけど」
 「へえ。ついに発音に挑戦? 頑張ってね」
 「で、タクトちょっと中読んでみ」
 むっつりとふくれっ面のシュウユウに促されるまでもなくそのつもりだったタクトはぱらりと適当に本を開いた。

 
 『嗚呼、麗しの君よ。貴女の微笑みは万の薔薇よりも美しく、その声は天上の楽となって私を酔わせる』
 『ああ、愛しい貴方。それは貴方にこそ相応しい言葉。例え私が薔薇だとしても、貴方という水がなければ私は咲き誇れない。愛しているわ、愛しい貴方……』


 「………………」
 ページを開いたままその場にうずくまり、ぷるぷる震えるタクト。
 黒い艶やかな髪から僅かにのぞく肌は真っ赤になっている。
 「……笑いたきゃ笑えよ」
 憮然としたままシュウユウがそう言った瞬間。
 「――っはははははははははははは!」
 一切の遠慮のない声でタクトが笑い転げる。
 こいつ、「ふふふ」以外でも笑えたんだなと妙に冷静に思いつつぽかりとバンダナに包まれた頭を叩く。
 「笑いすぎ」
 「ははは、ふ、ふふ。あー、いやー、君の軍師殿も中々どうして面白い人になってきたよね」
 目に涙を溜めながらくすくすと含み笑いをしながら手にしたままの本をぐい、とシュウユウに押し返しつつ
 「課題、頑張って?」
 と、非常にいい笑顔で言う。それはもう、きらきらと良く分からない粒子が周りで煌いていそうな勢いだ。
 もしここに女性がいれば、ノックアウト間違い無しの笑顔も、勿論シュウユウにとっては腹立たしいだけ。
 「頑張るかッ!? 突っ返してくる! セクハラだろこれ!」
 ぎん、とドアに視線を向け勇みこんで行こうとしたところで
 「無理だと思いますよ」
 笑いを含んだ声にぴたりと足が止まる。
 そのままくるうりと振り返り
 「……何を知ってる?」
 普段のシュウユウらしくもないドスの効いた声で尋ねる。
 しかしそれで怯えるほど可愛い神経をしていないタクトは悠然と
 「知ってるっていうか。君、この間僕を騙して課題ズルしたでしょう?」
 にっこりと、今度は普段の笑顔で逆に問いかける。
 それは、前回ハルモニアの指南書についてのレポートを、タクトを騙して彼に解説させて提出したことなのだが。
 「……ああー、うん、でもバレてすっげえ怒られた。まじ怖かった」
 その時の光景を思い出したのか、若干勢いを失くした声でシュウユウが頷く
 「だから、そのお仕置きなんじゃないかな?」
 「えー!? だって、だからあん時すっげえ怒られたんだって! ご飯食べてたのに、鬼みたいな形相で首根っこひっ捕まえてさ。一言もしゃべんないで部屋連れ込まれて。で、あとずっと正座で五時間耐久説教大会優勝シュウ軍師」
 先ほど怖かったと言う割にはどことなく余裕を滲ませた説明に、いちいち頷きながら聞いていたタクトはゆったりと首を傾げて
 「でも、君その説教の間、ちょっと寝てたんでしょう?」
 「うん」
 質問に対し反射的に頷くシュウユウ。
 そのまま2秒ほど経過して
 「って何で知ってんだよ!?」
 「シュウ軍師殿に教えてもらいました」
 ようやくのつっこみに用意していた言葉を返す。
 「なんでシュウがタクトにって、コラ!?」
 はっと何かに気付いた様子でタクトを凝視する。視線を真っ向から受け止めつつ
 「ようやく気付きましたか。はい、そもそもズルを教えたのは僕ですから」
 「うらぎりものぉー!」
 絶叫するシュウユウ。それによしよし、と頭に手を伸ばして邪険に払われつつ
 「だって仕方ないでしょう。あの時僕が怒っても君はきかなかったんだから。僕に言われた時点でちゃんと反省していたら僕も告げ口なんてしませんでしたよ?」
 「うー……と、とにかくでもこの本は……音読って……」
 分が悪いのを悟ったのだろう。最初の勢いはすっかり消え、戸惑ったようにシュウユウが目を伏せる。
 「そうだねぇ。訳だけならともかく、これを音読するのは恥ずかしいですね」
 同情禁じえないという風を装っているんですよ、と誰にでも分かる表情のタクト。
 「先輩、知恵貸して」
 むっとはするものの、他に縋るべき相手もいない。くいくいと服の裾を引っ張ってお願いのポーズを取るシュウユウ。
 「ふぅん。知恵と言ってもね。君が悪いわけですから。まあ、素直にもう一度ごめんなさいと丁寧に謝って、他のに変えて下さいって頭下げてみるしかないのでは?」
 「むー。それっきゃないかなー」
 「と思うけど」
 「……分かった。行ってくる」
 しばしの躊躇の後、決心したように顔を上げ、先とはまた違った決意に満ちた面持ちで扉へ向う。
 「御武運を」
 にっこり笑ってタクトが手をふった。


 「何用ですかな? シュウユウ殿」
 相も変わらずノックも無しに入ってきた主に視線を向け、シュウはなにやら書類に走らせていたペンを止めた。とはいえ、そういいながらもシュウユウの手にした本もまた素早く視界に収めた彼は大体の用件を察していたのだが。
 「えっと、この間は課題でズルしてごめんなさいでした」
 忠告通り、まずは素直にがばりと頭を下げるシュウユウ。丁寧さはない。
 「そうですか、それで?」
 許すとも許さないとも言わず、平淡な声のまま続きを促すシュウ。
 頭を下げたまま、これは手強いぞと内心汗をかきながらもぐいっと頭をあげ
 「反省しているので課題の本、別なのに変えて下さい」
 とりあえず直球で勝負してみる。
 「何故ですかな?」
 やはり是とも否とも言わず、ただ理由を問うシュウ。
 うう、と怯みながらも必死に頭を働かせつつ
 「ええと、やっぱりどうせ訳すならいつもみたいに戦略の本とかの方がお得だと思うし、訳しながら他の勉強も出来る方がいいっていうか。それに興味があまり沸かない本よりは少しは沸く、必要な本とかの方がより意欲も沸くと思うんですよ」
 言いながらうん、少なくともおかしくはない文だと思いつつシュウの返事を待つ。
 全く変わらない表情のままのシュウは一つ頷き
 「成る程。言いたいことは分かりました。しかし駄目です」
 「なんでだよっ!」
 思わず猫を脱ぎ捨ててぐい、と机越しに詰め寄るシュウユウ。
 予想通りの反応にシュウは淡々と
 「戦略関係の本ばかりですと、その用語しか覚えられないでしょう。私は戦略用語を覚えて欲しいのではありません。ハルモニア語を覚えて欲しいのです。これで宜しいですか?」
 あっさりと切り返され、ううっと再び身を引きながらも
 「だ、だからってこんなサブいぼ立ちまくりな恋愛小説じゃなくても、何でもいいじゃん」
 「たまたまアップルが持っていたのがそれだったので。何でもいいなら新たに本を購入するなど、無駄な出費をする必要もないでしょう」
 ああ言えばこう言う。軍師なんて大っ嫌いだ。
 「じゃ、じゃあ、タクトから本借りる。あいつなら絶対一冊や二冊持ってるって」
 「正しく訳されているか評価するのに私も読まなくてはいけないでしょう。なるべく軍主殿に仕事を回さなくていいよう奮戦している私にそんな無駄な時間はありません。その本はアップルに評価させるつもりでしたが、タクト殿となると流石にそのようなことはお願い出来ませんからね」
 「…………っ」
 実際にもしタクトに頼んだのなら、きっと、いや間違いなく二つ返事で快諾してくれるだろうが、それをシュウが決して許してくれないだろうことは火を見るより明らかだ。
 「……………………シュウ〜」
 手詰まり、懇願するような声を出す。
 「何ですかな」
 「お願いします、許してください。ごめんなさい」
 ぺこり。
 振り出しに戻った。
 しかし
 「何を謝っておいでですかな?」
 反応が違った。それも、嫌味で言っている発音でもない。
 おや? と思いながらゆっくり顔を上げつつ
 「えっと、だからこの間レポートズルして……」
 「はい」
 声だけで頷き、じっとこちらを見つめてくる軍師。
 あれ何この反応。まだなんかあったっけ?
 内心焦りつつ、またここが勝負の分かれ目らしいと直感し、必死に記憶を探りながら口を開く
 「それと……」
 「はい」
 ひとまずの繋ぎに接続詞を入れてみると、今度の「はい」は先程よりも若干、爪の先程度にだが優しさが含まれていた。
 ここだ! ええと僕何したっけ!? ズルしてめっちゃ怒られて、そのあとこの課題……って前の事!? うっわだったら分かんないって……だからズルして、部屋……あ。
 「それと、怒られている最中に寝ちゃってごめんなさい」
 どうだ! これだろ!?
 祈るような気持ちで内心絶叫しながら殊更項垂れてみる。
 すると
 「全くです」
 いやったああぁ! 当たりっ!
 したり声のシュウの言葉に、反省とは程遠く内心小躍りしまくるシュウユウ。
 「えと……反省してます。本当にごめんなさい」
 反論がねじ伏せられる以上、ネタが分かっているならばあとは謝り倒すのみ、と心に決め、再度ぺこりとお辞儀する。
 「そうですね……本当に反省してますか?」
 よし、いいぞいいぞ。
 「はい、ごめんなさい」
 「本当ですね?」
 本当だってば。
 「はい、本当にごめんなさい」
 「そうですか、それでは」
 はい?
 がそごそと何か音がする。
 シュウユウが顔を上げてみると
 「げ」
 「何か?」
 「い、いえ」
 異様に分厚い本を手にシュウが冷笑していた。
 「三日以内にお願いします。それと、ハルモニア語で反省文を羊皮紙一枚。これで手を打ちましょう」
 「みっか!?」
 目を剥き、シュウが手にしているどうみても1000ページは楽に越えそうな本を凝視する。
 そんな馬鹿な。普段ならこれの半分の厚さで7日は猶予があるのに。
 「はい、三日です。大丈夫ですよ。これは今まで訳していただいた戦術・戦略関連のまとめのような本ですから、これまでの内容を覚えているのなら充分間に合います。それに中には布陣などの挿絵もありますので」
 「だ、だからって三日は……」
 たじろむシュウユウにシュウは柳眉を上げ
 「ではやめますか?」
 「いっいや、やりますやります!」
 咄嗟に手に持つ本の痛い文面を思い出し返事をするシュウユウ。
 しまった、と思った時にはもう遅い。
 「そうですか、では三日後を楽しみにしてます」
 皮肉気な笑顔で『反省文も忘れるな』とメモ付きの本を渡されて。
 退出するシュウユウの姿は、誰がみてもよろよろしていた。


 「お帰り、シュウユウ」
 部屋に戻ると、ベットに寝そべって本を読んでいたタクトが手を振って迎え入れてくれた。
 手にした存在感のある本に楽しげな視線を送りつつ
 「で? どうだった?」
 なんとなくオチを予期しつつも尋ねる。
 「……最悪」
 げんなりとした表情のシュウユウから一通りの解説を受け
 「ふーん。シュウ軍師殿も可愛い所があるじゃないですか」
 くすくすと笑えば
 「どこがっ! やっぱあいつ鬼だ悪魔だ! 教育馬鹿め!」
 がぁ、と吠え立てる。
 それにまあまあと宥めつつ
 「本当に鬼畜生だったら変更を許さないでしょう。それに、結局軍師殿は君にちゃんと謝って欲しかった、ということでしょう?」
 「……だとしてもちっとも可愛くない」
 「……まあ、軍師殿も君に可愛いって思われたくは無いでしょうね」
 「タクトにも思われたくないと思うけど」
 「ああ、それはその通りでしょうね」
 何がおかしいのかひとしきりふふふ、と小さく笑い
 「まあ、ともあれ翻訳頑張って?」
 笑顔で促され
 「……皆嫌いだ」
 やけばちに呟いて、シュウユウはとぼとぼと机に向ったのだった。







  *幻水部屋へ*