051.森で




 じっと息を潜める。
 今日は風が強い。
 木々のざわめき、虫の鳴き声。気配を殺すのが楽だ。勿論、だからと言って油断などしないが。
 風が吹くたび、ぴしぴしと頬や頭をを打ってくる枝には閉口気味だが、太い木の枝に腰をかけさせてもらっているのはこちらなので、元より文句を付けられる立場ではない。
 昨日は小さな鳥しか仕留めれなかった。今日は、もう少し大きな獲物にありつければいいのだが。
 そんなことを考えながら、油断なく弦を張った弓に手をかけてずっと身を隠していると、歌声が聞こえてきた。
 いや、それは歌というよりは鼻歌だろうか、フンフンと適当なリズムが、段々大きくなってくる。
 近づいてきている。
 確信し、俺は少し焦ると同時に、疑問に思う。
 鼻歌を歌うくらいだから、まず人間だろうが同じ理由で狩人ではないだろう、なんだってわざわざこんな獣道に?
 そして祈る。
 ……おいおい、頼むから俺の仕掛けた罠に引っかかってくれるなよ……。
 罠のある位置を眺めやりながら、順調に近づいてきている……一体、どんな音量で歌っているのか……鼻歌。そして。
 何事もなく、通り過ぎた。
 潜んでいる俺に気付く事も、罠にかかることもなく、妙な調子の鼻歌は、まるで綺麗に逆回ししたように遠ざかって行った。
 高い調子の鼻歌に半ば予想はしていたが、若い男だった。そして、妙に軽装だった。身のこなしも、狩人や戦士のそれではなく、ごくごく普通。
 ――なんだったんだ?
 呆れたままに浮かぶ疑問。
 しかし、獲物が罠にかかるのを待つのに集中するにつれ、いつしかその疑問も消えていった。



 さらさら、さらさら。
 ぱちぱちぱち。
 「……」
 「あ、こんばんわ」
 ……失敗した。
 若干戸惑ったように、しかし笑顔と呼べる表情を浮かべて男が話しかけてきた。
 近づいてくる気配には気付いていた。
 なんというか、昨日聞いた鼻歌を歌っていたし。
 咄嗟に隠れようかとも思ったのだが、川の近くで火を起こし、漸くしとめた兎の肉がそれを躊躇わせた。
 念の為火は大きくならないよう気をつけてはいたが、匂いまでは隠せない。
 迷いなく近づいてくる気配から恐らくこちらを目指しているのだろうと開き直ったのがまずかった。
 これが、まだ相手が分からないのならそれでも隠れたのだろうが、暗い森に似つかわしくない明るい鼻歌に、昨日の妙な、それでいて到底追手とも思えない男の姿が浮かんだものいけなかった。
 結局、肉が焼けるのを待ちながら、弓に手をかけていつでも立てるようにだけしていたのだが。
 「えと……まだこんにちわ、だったかな? 森って時間分からなくて」
 「……」
 へらへらと笑う男を見て、やっぱり失敗したと思う。隠れればよかった。
 ……こういう人懐っこい笑顔は、苦手だ。
 「……俺に構うな」
 隙は見せずに、つい、と目を逸らし、ぼそりと呟く。何度でも繰り返してきた言葉。こう言うと大抵の場合、相手は不快の念を示しながらそれでも去っていく。偶に喧嘩も売られるが。
 さて、こいつの反応は?
 「あー。ごめん、ご飯の邪魔した? てかそれ以前に話しかけられたくなかった? でも俺も水飲みたいからさ。じゃあ構わないけど、横とか通り過ぎるから」
 我ながらキツイ拒絶に、しかし男は全く不快な様子を見せず、それどころかあっさりと理解を示して頷き、宣言通りに傍を横切って川から水を汲み、飲み干す。
 余裕で鼻歌等を歌っていた割りに余程喉が渇いていたのか。何度かその動作を繰り返すと、やっと落ち着いたようで、ふー、と大きく息をつき、こちらを見ると
 「……あー。やっぱ喉は潤ってる方がいいよねってあーごめんまた話しかけちゃったごめんね。あ、でも話しかけついでに、実はさ、俺昨日もこの辺でてきとーに寝てて、今日もそうしようって思ってたんだよねー。でもさ、ここで寝たら迷惑? 邪魔? だったらもっと上か下か、見えなさそうなところまで移動するけどそうした方がいい感じ? あーいい感じだね、うん分かった了解、じゃほんと邪魔してごめんね、俺えーと……うん、上のが行きやすそうだから上行くね。おやすみー気をつけてな少年」
 「……」
 息もつかせぬ勢いでまくし立てたかと思うと、先ほど同様有言実行、ぱたぱたと気軽に手をふって上流へと川沿いを歩いていく。
 止める理由もなかったし、実際有り難かったので黙って見送る事にする。
 ……変な奴だ。
 程よく焼けた兎に噛り付いた。


 ――ォゥ
 気配に気付き、身を起こすのと、その鳴き声が聞こえたのはほぼ同時。
 素早く弓を構え、意識を研ぎ澄ますと、獣の声は、思ったよりも上方にあるようだった。
 上方。
 あの男。
 あれは、警戒音。ならばもう、出会っている。
 確か目に見える武器は短剣というよりは、ごく普通のサイズの家庭にあるようなナイフ。紋章を宿しているのかは知らないが、なんとなくそんな気配はなかった気がする。
 ち、と舌打ちし、一気に走り出す。別になんの所縁もない相手だが、流石に襲われていると分かっていて見過ごすのは目覚めが悪い。
 ああ面倒な。どうせならこっちに来てくれればいいのに。
 はっきりいって、よほど近距離からの不意打ちでも無い限りこの森に住む魔物など敵ではない。間に合いさえすれば、確実に倒せるのに。
 しかし、未だに男の悲鳴が聞こえない事が不安だ。まさか、起きてないなどということはないだろうが、だとすると悲鳴をあげる間もなく、ということだろうか。
 さほど遠くない距離、走ったすえに、予想通りの光景が広がる。
 大きく毛を逆立て、今にも襲い掛かろうとしている狼の魔物と、かがり火を挟んで、身を起こしたばかりの姿勢で、申し訳程度にナイフを構えている男。
 悪い方の予想が当たらなくて良かった。
 ふう、と息をついて、こちらの気配に気付き、振り返った狼に矢を放つ。
 ひゅっ、と聞き慣れた音を立てながらゆるい放物線を描いた矢は、狙い違わず狼の額に突き刺さる。
 ひゅっ。
 続けて放たれた矢が、悲鳴をあげようと大きく開けた口内に吸い込まれる。
 「…………!」
 声鳴き断末魔をあげた狼は、そのままどさりと倒れ伏した。
 そいつにはもう目を向けず、他に仲間がいないか探る。 ……いないようだ。
 確信し、はあ、と俯いて溜息をつく。顔を上げたくない。きっとこの男は、またあの調子でしゃべりだすのだろう。
 本当に親切な奴なら、危ないだろ馬鹿、とか説教をしてやるのだろうが、俺はそこまでする気はない。
 とりあえず、見た目だけは向こうの方が年上なわけだし。
 うん、何か言われる前にこっちから拒絶してやればいい。
 「ありがとう、強いんだね」
 ……。
 開きかけた口がそのままの形で固まる。
 どうしようかとも思ったが、とりあえず顔をあげると、そこには予想していなかった男の表情。
 「……迷惑だったのか」
 うっかり思ったことを口走る。関わりたくなどないのに。
 だけど、男の顔に浮かんでいた表情。それは
 困惑、だった。
 「……いや、そんなこと。助けてくれて、ありがとう」
 夕方の饒舌さが嘘のように、簡潔な言葉で、頭を下げてくる。
 ――そんなこと、ない、とは言わないんだな。
 そう言いかけて、やめる。目覚めが悪い、というだけで助けた男だ。別に自殺願望があったって……いいじゃないか、関係ない。
 そう思った時、ざわりと右手がざわついた。
 「――ッ」
 俺でも感じた死の匂いに、こいつが気付かないわけがない、か。
 「……どこか痛めた?」
 一瞬……だと思う……歪んだ俺の顔に、眉をしかめて男が言う。
 「いいや。気にするな。 ……じゃあな」
 視線を合わせぬまま、くりると背を向ける。すると、抗議するかのように再び右手がざわめく。
 「……!」
 思わず一瞬止めた足に、心配そうな男の声がかかる。
 「あ……本当にどこか痛めたんじゃ……」
 言いながらこちらに駆け寄る。
 ……やめろ、触るな。
 「……お前、死にたいのか」
 ……言おうと思った言葉は、右手に引かれ、全然違う言葉に変わる。
 「…………助けてもらってなんだけど、それでも良かったよ」
 馬鹿野郎。何こんな胡散臭いガキの質問に答えているんだ若造。
 右手がざわめく。
 肩越しに振り返ると、目が合った。俺は多分に険呑な表情をしていたと思うのだが、それを催促と取ったのか、聞かれてもいないのに更に男が語りだす。
 「俺さ。いいとこのぼっちゃんなんだよね。っても半分だけだけど。まあ、俗に言うめかけばら? でもまあ親父はそれなりにまともでさあ。認知しないかわりにお金だけは無駄にくれて。で、暮らしに困らなくて、俺学校にまで行かせてもらっちゃったりして? でもやっぱり妾腹だし、周りすっごい他所他所してくてさー精神的環境って奴はそれなりに最悪だったわけ。でもって悪い事に、俺頭よくて? わりとなんでも努力しなくて色々こなせちゃったりなんとかなったりしちゃうわけよー。で、ひがみも入って余計に風が冷たいってか乾いてるってか? それでもまだおふくろが居た時はよかったんだけどさー……分かるよな? で、一人になってからはもう本当俺ってなんで生きてるんだろーとかどーしよーもないこと考えてきちゃってー。でも仕送りは充分だし、そういう意味では恵まれまくった環境で死ぬのも馬鹿らしかったから、2年くらいそれなりに過ごしてきたりもしたんだけど」
 ……よく、息が続くものだ。
 一息にそこまで言い放ち、こちらの反応を見る。確かに甘ったれた言葉にだと思うが、別に嫌悪もしない代わりに同情も理解も示さない、特に変わらない表情の俺を確認すると、何故か唇を吊り上げて続きを話し出す。
 右手が熱い。
 「……でさ、賭けてみようと思ったわけです。何をって? あ、聞いてない? うん、聞かれなくても勿論言うけど、俺の運を。三日分の食料だけもって、舐めきった普段通りの姿でこの魔物の多い森に入る。で、無事に帰れたら、町を出てどっか他の町に行ってなんか商売始める。そこでは真剣に生きる。そんな賭け。でもって今日は二日目で、目が覚めたらそこの狼がいて? あーこれは駄目だな、痛いのやだし、自分で刺しちゃうかな、あでも下に君がいるから、騒いだ方がいいのかな、でも騒いだら一気に襲われるよなーとか思ってたら、君が来て見事にあっさり助けてくれた。で、これは俺のウンメイって奴はどういうことなのかなー? って考えていました。おわり」
 「……」
 なんて言えばいいんだ? この馬鹿。
 実際話を聞いていてムカついてきたし、完全な自殺志望の馬鹿なら、いっそ、という思いも巡ったのだが、そういうわけでもないらしい。しかも、俺のことを考えてたりもしたらしい。
 まあ、あの緊張感の無い様子や、異様な軽装備、やる気の無いナイフの構えの理由は分かったが。
 熱い右手を意識的に無視して、とりあえず俺が聞いた形になる以上、なにか言わなきゃいけないよな、と思考もまとまらないまま口を開く。
 「……とりあえず、今日は死ぬ日じゃなかったんだろ」
 出てきたのは、間抜けな台詞。
 「あれ、怒ったり呆れたりしないんだ? もしかしたら殴られるかな、って思ったけど」
 意外そうに首を傾げる男。気色悪いからやめろ。
 「……別に、俺には関係ないからな……ただ、積極的に死にたいんじゃないなら、ここから離れた方がいいぞ。血の匂いで、また別のが出てくるかもしれないからな」
 「そっか。ありがとう。ところでさそのアトバイス、呼び止めなかったら言わなかったよね?」
 「……まあな」
 なんとなくバツの悪い思いで頷く。くそ、なんで俺がこんな思いを。
 「あはは、ごめん、そんな顔しないでよ。本当にありがとう、うん、積極的に死にたいわけじゃないから、助かった。ありがとう。それと、聞いてくれてありがとう。なんかさ、話してたら分かってたけど、俺すっごい馬鹿でヘタレって改めて認識出来て、で、あほな事やってるって分かったよ」
 「……それはなによりだな」
 「うん、だねぇ。でもってさ、冷静に振り返ってみると、やっぱりさっきの体験すっげえ怖かったし、なんだか俺やっぱり生きたいんじゃないかって思い始めてきたって言ってるうちに本当に思ってきた、うん」
 …………。
 「そのうざったい喋り方はどうにかならないのか?」
 「あっはっは。話し方は無理無理ー。ホントごめんね、でも無理。でさ、お願いがあるんだけど、明日森出ることにしたから、それまで――は流石に図々しいから止めとくけどさ、今夜、一緒に居ていい? あと黙ってるからさ。多分バレてるだろうから言うけど、このナイフほとんど実をもぐか、あとは痛い思いする前の自殺用でさ。またあの狼とかあったら絶対アウトだからさー本当。ああ大丈夫俺しゃべる時しゃべるけど、黙れって言われたらずっと黙れるから。ある意味特技コレ? そんなわけでお願い」
 ……あいつですら、ここまで喋らなかったぞ?
 半ば感心すら覚えながら、未だ諦められないのか、微熱を持ち続ける右手を意識し、ふと思いついたことを言ってみる。
 「……なんで俺と一緒なら安全なんだ?」
 薄く微笑みすら浮かべてやる。  男は若干困ったような表情を浮かべながら
 「えーだってそれは勿論、さっきの腕とか知識とかつまりは言動? それに」
 「実は俺、死神なんだ」
 また長くなりそうな台詞を遮って、言い放つ。さて、驚くか、笑うか、怯えるか?
 「…………ああ、そうだったんだ」
 そのままの表情で頷きやがった。
 「……信じるのか」
 なんで俺が驚かなきゃいけないんだ。
 「だって。君、最初は少年だと思ったんだけどさ。なんか違和感があって。なんだろうと思ってたんだよねー。そっか死神かー。で、何にとっての死神? 魔物? 人間? 気分? 魔物だと嬉しいな」
 「……偶に人間もだ」
 なんなんだこいつのテンションは。調子が狂う。でもって五月蝿い、右手。もうこいつはお前の餌じゃない。
 「そっかーでも偶にならいっか。てかさ、俺はリストに入ってんの?」
 「……いいや」
 「そっかーじゃあさ、俺が死ぬとき、会いに来てよ死神君。いや待てよひょっとしなくても年上? ならむしろ死神さん?」
 「……馬鹿じゃないかお前」
 「うん。馬鹿。でもって死神君さんに命助けられたから、間際でいいなら死神君さんにあげるのが筋っしょ? あ、魂って年齢に比例するの? イキの良さとか」
 「いや……そんなことは……ってお前な……まあいい、とりあえず、いい加減ここから離れるぞ……ついてくるなら来い」
 「はーい」



 「やーごめんね。結局町まで送ってもらっちゃって」
 「五月蝿い。もういい……それより、忘れるなよ」
 結局。
 黙れ、と言うまで際限なくしゃべり続ける男を伴って……本当に黙れ、と言った瞬間にそれ以降しゃべらなかった……森を抜け、イチからやり直す、とかいう町の入り口が見える街道まで来てしまった。
 もしかしたら自分はお人好しなのだろうか、と思いながら、大事な念を押す。
 敢えて主語、目的語は言わなかったが、男は迷わず首肯する。
 「うん、死神君さんに会った事は言わない、だよね。大丈夫、忘れないよ、でも寝言で言ったらごめん」
 「……まあ、寝言で死神君さん、とか言ったところで誰も気にしないだろ」
 だから何度聞かれようと名前は名乗らず、その珍妙な呼び名を受け入れていたわけだし。
 「だよねー。じゃあ、ホントありがとうございました。俺が死ぬときは来てねー」
 「……そんな約束はしないからな」
 「あっはっは。じゃあもしこの街に寄ったら俺探してね! よろしく!」
 「……いいから行けよ」
 「うん! じゃあね!」
 ああ、と頷くと勢い良く手をあげ、町へと向う男。その背を見て、また言うまでもないことを言いたくなる。
 「……おい」
 「なに?」
 律儀に止まった挙句に180度回転して向き直る男。う、顔を見ながらだといいづらいじゃないか。
 「命、大事にな」
 呼び止めた以上仕方ない。そのまま素直に告げると、失礼なことに、男は爆笑した。
 「――うん! 分かった! ありがとう!」
 一言一言、はっきり発音して手をぶんぶんと振る。ああ分かってるさ、散々関係ないとか死神とか言って、何を言ってるんだ、って感じだよな、くそ。
 開き直って俺も手を振ってやった。

 
 完全に男が見えなくなってから、俺も来た道を戻る事にする。
 変な男。結局最後まで名前を聞かなかったが。
 狂わされっぱなしの調子で、それでも認めよう。この短い間、楽しかった。
 そして、ちゃんと別れられた。
 当たり前といえば当たり前だが、数日の交わりなら、喰うには至らない。至らなかった。
 誰も、人どころか獣も魔物もいない街道から一つ横にそれた獣道。
 歩きながら俺は一人密かに決心する。
 絶対に、あの街には寄らないと。  

 *後書き*
偶には人と触れ合う彼が書きたかったのですが、思った以上に「男」が目立ちまくりでした。未熟の証拠。 ……これはオリキャラって言っちゃうレベルの出張りでしょうか……。 ともあれ、奇妙さと、少しの幸せを感じていただければ嬉しいです。
   





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